第2章 · 2 / 5
農耕文化の変遷
旧石器時代の狩猟採集から新石器時代の栽培化へ。雑穀・根菜・照葉樹林という三つの農耕文化の類型を手がかりに、食文化の土台をたどります。
人類の食文化は、農耕という革命的な技術と共に発展してきました。
多様性に富むモンスーンアジアの食を理解するには、その基盤となる農耕文化の成り立ちと変遷を俯瞰することが不可欠です。
現生人類(ホモ・サピエンス)の歴史の大部分を占める旧石器時代、人々は狩猟と採集により、食肉・野草・果実を獲得する移動生活を送っていました。
転換点は新石器時代です。
世界各地で植物の栽培化が始まり、モンスーンアジアでは、中国の揚子江流域で稲作が、黄河流域でアワやキビなどの雑穀栽培が始まります。
また、東南アジアなどの温暖な地域では、芋類などの根菜栽培と狩猟採集を組み合わせた複合的な生業形態が発達しました。
新石器時代以降、やがて農耕は生活の中心となり、社会の形そのものを変えていきます。
特に水田稲作は、灌漑や田植え、収穫といった共同作業を必要とし、人々の組織化を促進しました。
日本では弥生時代初期に体系的な水田稲作が伝来し、後の律令国家の下で税制の基盤となり、集約的で大規模なものへと発展していったのです。
さて、こうした農耕文化は、気候風土に応じて複数の系統に分かれ、互いに影響し合いながら発展してきています。
植物学者・中尾佐助氏の分類を参考にすると、モンスーンアジアではいくつかの文化圏を見ることができます。
まず一つに、雑穀農耕文化。
中国北部の黄河流域を中心にアワ、キビ、マメなどを、また中国南部の長江流域では、稲を栽培した文化が該当します。
西部(インダス文明周辺)では麦類、豆類、綿花などが栽培されました。
ちなみに、ここで言う『雑穀』とは、アワやキビだけでなく、当時は他の穀物と混作されていた『米』も含めた、主食となる穀物全般を指す広い概念です。
長江流域で始まった稲作は、まさにこの『雑穀農耕文化』の一翼を担い、やがて技術の発達により水田稲作として独自の発展を遂げ、モンスーンアジアの広範な地域に伝播していったのです。
根菜農耕文化。
東南アジアなど温暖な地域で発達した、芋類の栽培と狩猟採集の複合型です。
太平洋の島々や、南インド、スリランカの食文化もこの文化圏に含まれます。
台湾の一部の先住民族では現在でもなお、芋を主食とした食文化が見られると言います。
照葉樹林文化。
中国南部からヒマラヤ南麓の山岳地帯、そして日本西部へと連なる、常緑広葉樹の森林地帯に広がる文化。
茶の栽培、漆の利用、また、納豆やなれずし、魚醤といった発酵料理が特長です。
もちろん、これはあくまで類型です。
実際の文化は地域ごとに独特の混合を見せ、交易や人の移動を通じて絶え間なく影響を与え合ってきました。
日本列島を見ても、水田稲作とともに、東北のマタギに代表される狩猟文化、北陸の雑穀文化、九州南部の芋文化など、多様な農耕文化が息づいてきました。
「一山越えれば文化が違う」と言われる所以です。
このような農耕の形態は、単に「何を食べるか」だけでなく、人々の共同体のあり方や自然観までも規定する土台となりました。
そして、この土台の上に、国家の形成、宗教の伝播、そして「医食同源」のような思想や哲学が重なり合い、モンスーンアジアの複雑で深遠な食文化体系が築き上げられていったのです。